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2008/10/29

嗚呼、引越し準備

つくばから富山に来たときのよう全く順調には進まなかった。出向以外なかなか人事の情報がこない旦那は毎日ブルーで、私は私で今がんばってしまうと引っ越しができないくらいに疲れていた。だが内示もでるとそうもいってられない。今回はなんとか九段下ですんだがつくばに通勤するとなればいやでも朝型生活をしなければならない。
引っ越し業者が決まってから、朝5時に起き自分の荷物の整理を始めた。都内のマンションのため今までのように余裕のある間取りではない。極力いらないものは捨てる方向で、まずすぐには使わない普段は物入れのようにして使っている部屋からかたずけ始めた。5時から6時ころまで引っ越しの準備をしてそのあと出勤準備だ。子供が小さいので普段使うものはなかなか片づけられない。そして大人だけなら食事は外食やお総菜にしてキッチン関係をかたずけはじめられるのだが、小さい子供がいると健康面でちょっと心配もありなかなかかたずけられなかった。そしてラクラクぱっくをおねがいできるほど、かたずいてもなければお金もない。何よりも一番量の多い子供の衣服やおもちゃをなかなかしまえないのがつらかった。娘の分はまあ多少はいいとしても、1歳児の太郎はないといって泣かれると始末が悪いからだ。初めてから3日ほどで物入れのようにしていた部屋をかたずけ、週末にまずは普段はあまり使っていない娘のおもちゃをかたずけた。それからゴミの日に合わせ、いらなそうなものをどんどん捨てていった(つもり)だった。
社宅は退去にあたり修繕箇所がなおっているか、きれいに掃除されているかを管理人にチェックしてもらわなければならず、荷物をつんですぐに引っ越しというわけにはいかない。富山にくるときもそうだったが、帰りも日通のコンテナ便を使った。そして異動がはげしい4月1日前後をさけるため、3月30日に出すことにしたのだがそれでも日曜日にあたるため混んでいるらしく見積もりをしたき営業は、
「忙繁期なので、値引きはいっさいできません。見積もりのみでしたら実際おうけできるかどうかは確約できかねます。」
とまで言われた。私も旦那ももう何件が見積もりをとって安い業者を見つける元気もなく、値段も富山に来た時とそう変わりがなかったのでおねがいすることにした。私の職場の社宅は引っ越す前に管理人の点検をうけ、指摘されたところをなおさなければならなない。見積もりのためかたずけた勢いで管理人をよんだのだが、
「遅すぎる。この時期は引っ越しがかさなるから予定がいっぱいなんだ。」
と怒られたそうだ。(旦那がね)風呂場の壁の塗り直しと鍵をシリンダーごと交換になった。鍵をなくしたわけではない。我々がすんでいたとき、勝手にねじがはずれてこわれてしまった。何をしたというわけではなく、古くてこわれてしまった。おかげでノブをひねらなくてもドアが開くようになり、保育園児の娘が自分でドアを開けられて楽なのでほっておいた。なんでも壊れた時点で管理人に言えばただで交換してもらえたらしいが、引越しの時点でみつかると全額負担なのだそうだ。旦那は最初は
「ふすまも障子も自分で張り替える!」
といっていたが、正直
「休日はチビが家にいて引っ越し準備もままならないのに絶対無理。」
と思っていたが、案の上業者発注となった。小さい子連れの引っ越し、背に腹はかえられないのだ。富山に引っ越しするときは、
「帰ってくるときはラクラクパック。」
と心に誓ったが、太郎が生まれて以来、日常の整理整頓もままならず断念した。だいたい引っ越し王日通の営業はやけに趣味のものの多い我が家をみていった。
「細かいものは自分で箱詰めってことでよろしいでしょうか?」
倉庫部屋の日常ほぼ使われない私の趣味のものは最初の週にかたずき、土日になんとかやる気をだし、普段はあまり使われていないリビング以外に置かれているおもちゃから箱に詰めていった。荷物は極力減らすつもりだったのに業者がくれた段ボールはどんどんなくなった。
ゴミの日ごとに捨てられるだけ捨てたのにな~。
私は収納家具も新しいマンションに行ってからその部屋のサイズにあったものを買えばいいのではないかと思っていた。ところが旦那はそうは思わなかったらしく、やたらと収納家具の処分をいやがった。だがもいちいちそんなことで意見するのは面倒だった。自分の意見をきいてもらえないのは腹がたったが、もう怒るのも面倒だし説得するのはもっと面倒だった。消耗しないためにはすべてを深く考えずに流されることだ。きっと4月にはいやでも東京にいる。諸事情により春分の日に予定されていた卒園旅行がなくなり、引っ越し的には若干の時間的体力的余裕ができた。卒園式の29日までの日々は瞬く間に過ぎていった。もう今となっては何があったのかよく覚えていない。3月30日月曜日は荷物を出した後の掃除をしようと思い休暇を取っていた。仕事はなんとか29日の3時すぎにはかたずけ安心していたら、突然
「今年度の作業日報を出してください。」
といわれた。
まずい。
この作業日報というのが曲者で、出勤日数と作業日数を正確に出さなければいけない。私のように1日休や時間休を頻繁にとっていると、日数を合わせるに非常手間取る。日頃からきちんと日報をつけていればそんなこともないのだろうが残念ながら私はそうではなかった。結局その日は21時近くまで残った。その日、太郎は体調が悪く旦那は休暇を取っていたので、さほど子どもたちの世話のことは気にならなかった。ただそのひ、富山で仲良くしてもらった知人が夕方顔を見せてくれることになっていて会うことができなかったことが心残りだった。子供たちの心配もなく仕事ができると案外9時まで仕事できてしまうんだなと思った。結局その日日報をだすことはできず、30日に出しにくることにして9時前に帰宅した。翌日は卒園式だというのになんの感慨もなく、ただ朝きちんと起きてでられるのかそれだけが心配だった。

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2008/10/25

お別れ茶会にて

保育園終盤に向け、保育園のお友達とのお付き合いがどんどん濃くなっていった。娘のクラスに娘を含め2人しかいない女の子のおうちに一緒にバーベキューをしたりママ茶したりした仲良しグループで遊びに行った。娘の保育園は年長さんになると月に1回お茶のおけいこがあり卒園間近の3月にお別れ茶会が行われ参加した父母にお茶をふるまう。すごく楽しみにしていた旦那は出張が入ってしまいいけなくなってしまった。代わりに私がビデオカメラをもって参加、お茶がでるわけなのでお菓子を食べたりお茶を飲んだりそれはもう大変だった。年長さんなのでとりあえずお茶をたてて、お運びをしてくれた。そしてその後子どもたちは保育園におき、ママ茶がもよされた。2月の下旬、女の子の家に遊びに行ったとき、
「みんなで卒業旅行に行こう!」
という話になっていた。その日はその案を具体化することになった。何箇所か子どもたちと一緒に泊まれて大騒ぎしても大丈夫そうな施設をピックアップしてあり、どこにするか話し合った。最終的には大きな宿泊施設とログハウス1軒かりられるところに絞られ、問い合わせをしていろいろ検討した結果、ログハウスを押さえた。先生にも声をかけることにして、子供達に風邪をひかせないこと、万が一に備えて子供たちには当日まで内緒という約束が交わされ、その日はお開きになった。そのときの心配事は、私の引き継ぎの出張がどこに入るかだったが、それも無事クリア。
3月の祝日の前日の夕方に集まり祝日のお昼解散の予定だった。3月、引き継ぎの出張も終わると引越しの準備をしないわけにはいかなかった。育児休業明け以来荒れまくっていた部屋を、引越し以前に業者見積もりと管理人点検に備えて掃除することから始めなければならなかった。年長さんと1歳9か月の太郎がいると全く作業にはならず、かたずけるために休暇を使った。今回は子供2人を連れて引っ越さなければならないし前回富山に来た時より私も旦那も確実に年をとっている。無理はできない。なるべく体に負担が来ないように努力した。もし引っ越す前日に富山に引っ越してきたときのようにほぼ徹夜になってしまったりしたら無事1歳9か月児を連れて東京にたどりつける自信がなかった。気持も極力追い込まないようにした。卒業旅行はやはり行きたかったがダメージは否めなかった。しかしせっかく仲良くなれてせめていい思い出を残してあげたいと思った。娘はだいぶ疲れていたがなんとか体調を維持することができた。
卒園旅行の前の週の金曜日、いつも明るいママから、
「パパが高熱をだしました。来週は卒園旅行だというのに・・・。」
というメールが来ていた。まあまだ日もあるし、今ひいとけば治るんじゃないのかなと軽く考えていたらその週の月曜に、
「旦那が入院してしまいました。残念ながら行けません。」
というメールが入った。明るいママは言いだしっぺでもあり何よりも楽しみしていた。このママとお友達には内緒他のお友達だけでいけるだろうか・・・かといってすでに宿も押さえてあってもったえない気もする。皆に、
「どうしましょうか?せめて(友達の名前)君だけでも連れていけませんかね?それとも仕切り直しますか?泊まりは無理でもせめてどこかで集まって遊ぶとか。」
お友達を1人だけ抜いて卒園旅行というのはあんまりだし、かといって子供だけ連れて行って事故でもあったら大変だという思いがあった。一緒に行くことになっていた4人からのメールは、
「やはり中止にして仕切りなおしましょう。」
というものだった。といっても3月29日に卒園式を控え、残り1週間強日程をどこまで合わせられるか、引越しを控えどこまで時間を割けるかはわからなかったが、もし中止で何もなかったら都合が悪くなってしまったママも気まずいだろうし、何よりせっかく仲良くなれたのに残念だった。いろいろ予定を合わせた結果、卒園式の翌日の日曜日、みんなでどこかで遊びに行こうということになった。特に特別な施設でなくてもどこか広い公園のようなところでみんなで思いっきり遊べればいいなと思った。街の中心部にある保育園ということで、みんな遅くまで仕事のおうちが多く、なかなか保育園以外でお友達と遊ぶ機会がない。平日はもちろん、休日もうちがいろいろと都合があるようにお友達の家にも都合があるのではないかと思い、なかなか一緒に遊ぼうと声をかけにくい。保育園は意外と子供の親同士がかかわる機会がない。
私立の保育園で、割となんでも保育園がなんでもお膳立てしてくれていたせいもあったかもしれない。なんとなく敬遠してしまったが、よその県その地方から転勤してきた我が家はいっそ保護者会の役員でも引き受けたほうが知り合いが増えてよかったかもしれないなと娘が年長になって思った。3月も後半に入ると毎日が濃い日々だった。そして卒園式、やっぱり絶対に忘れられない思い出が残るのだった

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2008/10/23

そして第2のミラクルが・・・

3月になり、出張に行っていた旦那から電話が・・・
「たった今保育園が決まった。」
そう、東京の保育園が決まったのだ。
まじ?
しかも第一希望でおばあちゃんの家と自宅となるマンションから一番近い保育園に決まった。2人とも正職員で申込の時点でつくば勤務だというのがきいていたのかもしれない。それと保育時間が6時15分までで、都内で働く人にはちときついのかもしれない。なんとなく自分の「都会に住みたい」というエゴで旦那とその一族を振りまわしてしまったのかもという後ろめたさがあった私は、
「亡くなった岐義父も我々が東京に来るのを歓迎してくれているのか?」
と都合のいいことを考えてみたりした。とはいうものの、
「あなたの家族のことを考えて東京に住むんだから。」
と保育園の申し込みや小学校の手続きはすべて旦那にやらせてしまった。だんなはとりあえず出勤さえすれば、比較的暇なときもある仕事で、私は年度末になると図面があがってきて忙しくなる仕事だったのもある。娘の小学校のほうは、義母の家から一番近い学校に入りたかったのだが、
「幼稚園等でお友達がいくからと。」
という理由なら学区外の学校にも通えるがそれ以外は受け付けないということだった。最近小学校の越境は比較的簡単なのかともったがそんなことはなかった。その学校だと家から少しだけ遠くなるうえに生徒数が少ない。保育園はうまくいったが娘の小学校はあてが外れてしまった。そのかわり、学童は簡単に入れた。
とりあえず保育園が決まったのは良かったがその後の手続きもいろいろと大変だった。保育園が決まると同時に旦那の出向が決まった。そしてその出向が決まるとなんと私が東京の営業所への異動の話が持ち上がった。営業所といっても富山のように余裕があるところではなく不安はあったがとにかくしょっぱな長距離通勤にならずにすんだのはよかった。
出向が決まってからというもの旦那はすっかりブルーになってしまい、2言目には
「不安だ~、いやだ~。」
を繰り返していた。というのも、出向はすぐにきまったもののどの部署でどんな仕事をするか全く聞かされなかったからだ。私たちの職場は職場内の移動ならたいてい3月にはだいたいどの部署に行くか決まり、どんな仕事をするかもわかる。引き継ぎは3月中に異動者が転勤先に出張にいき行う。社内の異動なら3月上旬には内示がでて転勤先に出張に行ける。ところが出向の旦那は、詳しい部署をなかなか教えてもらえない。仕事の内容がわからないのはもちろんのこと、どこにいくのかも定かではない。そして中旬を過ぎたころやっと行先はわかったが、今度は引き継ぎの出張の連絡は3月下旬にならないと行けなかった。その間にも職場関係のセミナーなどの出張が入り、出張疲れと先行きの不安な旦那はブルーになりず~~っと愚痴っていた。
なんとか保育園の面接と学童の手続きのために3月中旬の旦那のつくば出張にあわせて子供たちを連れて東京に行かなければならなかった。最初は家族で車で東京まで行き、旦那はそのままつくばに出張に私は手続きを済ませたあと月曜の夕方に子供を連れて飛行機で富山に戻ることにしていた。しかし直前の金曜日、職場内の内示がでて私の異動先に連絡をしていつ引き継ぎにいったらいいか聞くと、3週目は自分が引き継ぎに行くので、できれば2週目がいいということだった。引越しの準備もあるのに1週間に富山・東京間を2度も移動するのは気力体力的に不可能だと思い、無理を言って2週目の水曜日朝からにしてもらった。保育園の申し込みも小学校の学区についても割と厳しい対応を受けたので学校も保育園も冷たいのではないかと心配だった。ところが実際に行ってみると太郎の保育園は施設そのものは古いが公立だけあってスペースは富山の保育園よりは余裕があり、園長先生は元保育士のとても熱心な方だった。富山の保育園のような幼稚園並の指導は期待できないが都会の保育園の割に自由奔放なのはよかった。女の子だともっと心配したが男の子なので元気に動きまわれるほうが好ましい。
小学校も新1年生は9人でそのほとんどが女の子ときいてすごく心配したが、暗いイメージはなくむしろアットホームな感じで都会の割に先生もカリカリしてなくてしかも教育に真摯に取り組んでいる雰囲気が伝わってきてよかった。
「小人数はむしろ幸運かも。」
と思える雰囲気だった。引っ越しを終えた今となっては覚えていないのだが、日曜日に東京にでてきて月曜日にパパは区役所に住民票の異動の手続きに行き、私が娘と太郎を連れて保育園の面接にいった。保育園と学童が決まって提出する資料に、勤務証明がありこれが困りものだった。転勤が完全に決まってから保育園を申し込んでも入れるはずがない。というわけで、職場でどうやら転勤があるらしいという時点で保育園を探し始めるわけだが正式に転勤すると公表されているわけではないので勤務証明なんかでるはずがない。
営業所が各地方にある私の職場は比較的早い時期に転勤することだけは伝えられる。転勤するのが本社のあるつくばなのかはたまた各地方にある営業所なのかはすぐにわかるが、どの部署かまではわからない。
勤務証明がだせるわけない。さらに今回は旦那は別組織への出向なので話はさらにややこしい。これまでは世間はお役所仕事を責めるが住民の個人情報を握っているのだから書類手続きに手間がかかるのはやむえないだろうと思っていたが、さすがに今回はうんざりした。
県外に引っ越すんだから申し込みの時点で住民票があるわけない。入りたいって思った時点で住民票がなくたって保育園の申込はしたいのだ。小学校だって家から見える場所にあるのになんでわざわざ遠い(といっても徒歩15分以内なのだが)小学校にいくのだ?
これから転勤するんだってのに勤務証明なんかでるわけないだろう?さまざまな共働き夫婦の保育園・小学校手続きの矛盾に苦しめられ、実際小学校・保育園ではどんな仕打ちを受けるのだろうとややブルーになりながら保育園・小学校に向かった。しかし、保育園の職員の方は拍子抜けするくらい親切だった。面接というからどんなことをするのかと思ったが、結局児童表の記入だった。母子手帳が必要だったのだが、何も言われてなかったのか転勤の混乱のなかで忘れてしまったのか持ってこなかった。記入の途中で旦那が姿を見せ、娘を小学校と学童の手続きに連れて行った。
面接の間、太郎はママの膝からほとんど離れなかったが、手続きが終了して帰る時には園長先生や事務室の人にバイバイをすることができた。太郎の保育園の面接が終わり、娘の小学校に向かうと娘は校長室で説明を聞いていた。ちょうど小学校の持ち物について説明をうけるところだったらしい。太郎はなれない場所に連れていかれて疲れていたのか午前中だというのに抱っこされたまま寝むり始めた。校長と副校長が対応してくれていた。少し話すとその年の1年生の先生が持ち物の説明しに来てくれた。近年学校の先生のことがいろいろと取りざたされるが実際にお会いしてみると実にふつうに教育熱心そうな先生だった。その後学校の中を見学して回った。人数がへっているだけあってやたらと特別教室が多かった。実際英語の授業をやっているところも見せてもらったが、人数が少ないというだけで子供たちは特別かわっているところはないし、外国人教師によって行われているその授業で、子供達は積極的に勉強していた。
授業内容はちょっとした英会話教室みたいだった。
どんな雰囲気なんだろうと思ったが、人数が少ない以外は普通の小学校でむしろ雰囲気はよかった。別にいいじゃんという気になった。学童の手続きも保育園同様
そんな書類だせるか~!
的なことがあり、どんななんだろうと思ったが学童の先生もとても面倒みのよさそうな感じのいい先生だった。勤務証明も今の時点では出せないことを伝えると、役所の手前があるのでといいつつも、そろってからでいいですということになった。近くの小学校に行けなくてブーイングだったが、人数が少ないということであっさり学童に入れた。
申込みの印象よりずっといい。
夕方から旦那は翌日から会議のあるつくばへ。私は月曜日は休暇で火曜日は富山から東京へ移動していることになっているので自宅とばあちゃんちに娘と太郎と一緒に潜伏。水曜日は9時から打ち合わせだった。新しい仕事は窓口のバックヤードで実務は窓口に座っている職員がこなすから割と暇だと聞いていた。私は旦那が出向先勤務で帰宅は遅くなるので、平日は1人で子供らの面倒をみなければならなくなる。そして学童は最大延長6時まで、保育園も最大延長6時15分までなので早出勤務にすることにしていた。早出勤務だと8時出勤、休み時間30分で4時半に上がれる。お金は好きだけど仕事はあまり好きではない私は人より早く帰れるということはそのときは嬉しかった。(が、始まってみると早く帰れるっていっても事情があって早いだけなのでぜんぜん楽しくない。)
仕事の説明を夕方まで聞いた。割と細かい人だと聞いていたので遅くまでかかることを覚悟していたが、明るいうちには終わった。引き継ぎの出張はだいたいその年の異動者が同じ日にきて飲み会が設定されたりするのだが、私は時期を考えずに出張をいれたので断った。せっかくの上京の機会だったのだが、時間の采配が全くわからず友人たちには前もっては連絡をとらなかった。
子供らは会議を終えた旦那が車で富山に連れて帰っていて久々に子供の心配を過ごせる夜だった。ひょっとしてと思い、漢方薬剤師の友人に電話してみた。予定があり夕食は一緒に食べられないがそれまでなら店で時間をつぶさせてもらえることになった。もしかしてと思い、もう1人のカリスマブロガーの友人にも電話してみた。もし時間があるならその友人の最寄り駅で一緒に御飯を食べるでもいいなと思った。たまたまカリスマブロガーは表参道に用事があり、やはり予定があるがそれまでならせっかくだから会おうということになった。漢方薬剤師の友人の店で1時間くらい慌ただしくしゃべりまくり、その後表参道でカリスマブロガーにあった。彼女も時間があるからどうかなと思ったけど一緒に夕飯を食べることになり、アジアンな屋台風のお店に入った。表参道というとクレープに10代の若者というイメージがあったが路地に入るとおしゃれでおいしそうなお店がいっぱいあった。そして表通りもすごく大人向けでびっくりした。時間切れまじかにMOMA美術館のショップに入り、友人お勧めのマグネットを購入。
引越しの間メモをとっとくのにすごく役に立った。友人と別れてせっかくなので表参道ヒルズをのぞいてみた。時間も遅かったので空いていた。お店もお客さんもものすごくスタイリッシュでセットの中を歩いているみたいだった。交差点でもこの人モデルなんじゃないだろうかというような人もいて、東京ってやっぱり特別な場所なんだと改めて感じた。翌日は仕事もなかったので、なるべく早い新幹線で帰って引越しの準備をするつもりだった。上野駅を10時過ぎにでる新幹線に乗り富山についたのは14時だった。新幹線は満員。はくたかはがらがらだった。ローンで買ったレッツノート様のお陰でいつもは長くていやになるはくたかがあっという間に感じられた。家につくと一気に疲れがでて寝てしまった。今回、いろいろと忙しくて3月に入ってもほとんど引越しの準備をしていなかった。旦那の出張が続き、娘の保育園のイベントも続き、娘も太郎も風邪をひき、もうくたくた休暇は目減りする一方だった。

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2008/10/20

そうきたか~

年が明けて1月2月はあっという間に過ぎていった。
なんでなんだろうな?
なんか子供たちと自分が体調がいい合間に仕事してという感じで気がつけは2月になっていた。2月なり再び、
「出向でもよいか?」
という問いかけがあった。出向なら旦那の勤務先は東京になる。ただし帰りが遅くなるし、1歳児の太郎が東京の保育園に入れる可能性が低くそのときはつくばの無認可に入れるつもだったのでどうなるか心配だった。2人ともつくばなら私が勤務時間短縮を使うつもりでいたが、家事や育児はある程度旦那のサポートが期待できた。だがもし出向になってしまうと旦那の手助けは期待できなくなる。しかしそこでふと思いついた。
旦那が出向なら私は単身寮に入れてもらって太郎と一緒に住所を移し、月~金をつくばで過ごすってのもありか?
小学校にあがる娘はすでに分別がついているからおばあちゃんにお願いしてもそんなに迷惑はかけないと思う。(第一娘には義母との血のつながりもあるし。)
年明けからなぜか出張の続く旦那。その合間をぬって旦那が今度転入する北区に保育園について問い合わせをした。きっと4月入園の手続きなんてできないんだろうなと思ったら、マンションを購入していたため、4月からの住居が確定しているということで4月入所の順番待ちに登録することができた。入園できるかどうかはともかくまさかのミラクルである。しかしつくばまで通勤するとなると早朝にでなければならないので、あまり遠い保育園しかいけないと断るしかなくなる。しかも無認可園などに入ってしまうと、認可園の入園順番待ちには入れないそうだ。
厳しい、さすが東京厳しい・・・。
念のため、東京の自宅そばの無認可や私立で早朝から夜遅くまでみてくれる施設を探したが何しろお金のかかり方が尋常ではない。
東京ってやっぱり子供(と貧乏人)に厳しいところ・・・。
すでにマンションを購入していたため、順番待ちはできたものの、手続きは恐ろしく大変だった。北区曰く、富山市を通して北区の保育園の入園申し込みをしてほしいとのことだった。
言われたとおり富山市役所の児童福祉課に行き、事情を説明したがもちろん富山市役所のほうでは
「?」
ということで、そんなことしたことないのでわからないと言われたらしい。(旦那がね)
しかしここで引き下がってはいられないと旦那もがんばったところ、富山市の人が北区に連絡をとってくれて、やっぱり富山市の人は「???」というかんじだったらしいが、とりあえずなんとか書類を作ってくれるということになった。
富山市の職員はわりと親切だ。
だいたいにおいて、決まりはあるけどまあいろいろと事情もおありでしょうということで対応をしてもらえた。
今回のできごとで東京の
「やってあげるから四の五のいわずそろえなさい。できないなら無理だから。」
という態度を目の当たりして、なんだかブルーな気持ちになった。
「やってあげてるんだから。」
という感じはその後太郎の通う公立保育園やたまに手続きにいく北区役所でもあらわれており、田舎ものの私にとっては憧れの東京だったのだが、そのせちがなさにやるせなくなるのだった。
もし今回同じ態度で富山市の職員に臨まれていたらもう我が家はにっちもさっちもいかなくなっていただろう。
そして市はもちろん、県、地方をこえてしまうと状況も手続きも全く変わってしまう保育園の制度を目の当たりにした思いだった。
これが小学校・中学校・高校ならこんなことはないはずだ。
これからやむえず転勤しなければならないママさんだっているはずだ。
そういう場合その家族のみが奔走し本当に入れるかわからない不安を抱えたままは働かなければならないのか?
もちろんそんなにころころ引っ越ししなくてすめばそれが一番いいに違いない。
父親の仕事の都合で転居するとき問答無用で妻や子供があわせなければいけないってどうなのかと思う。
だからといって父親に単身赴任しろというのはもちろん違う。
男は仕事のために家庭を犠牲にするのは当たり前であっていいのか?
縁あって夫婦になって子供もうまれて家族になって、仕事と同じくらい大切にするのはまちがっているのか?
そして女が仕事を大切にするのはいけないことか?
(私は最近それほどたいせつではない。家族優先で自分の生きてく収入が得られるのが理想)
つくばに定時で通勤するためには6時半すぎには家をでなければならないことがわかり、その上に旦那が出向になってしまったら、私は過労死するんじゃなかろうか?いやいっそ過労死したほうが楽かもと本気で思い涙するのであった。そして2月下旬、ついに上司からの問いかけが、
「出向できないか?」
に変わった。
私はそのときもう腹をくくった。
旦那は
「近くの保育園が決まったら・・・。」
と返事をしたらしい。そのとき彼の頭にはそういっておけば、あるいは出向せずにすむのではないかと思っていたのだ。

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2008/10/15

それは年末から始まった

それは昨年12月のこと、富山に来てから5年がたっていた。きたとき1歳7か月だった娘は次の春には小学生、月日のたつのは早いものである。それとともに富山での生活がすっかり当たり前になっていた。しかし、本社に出張にいくことの多い旦那は会う人ごとにいわれるらしい
「もう帰ってくるんだろう?」
富山はとてもよいところ。
このままず~っといてもいい。
でも気になるのは旦那の実家のある東京にすでに購入してしまったマンション。80才間近の義母も旦那とその孫が近くに帰ってくるのをず~っと楽しみにしている。万が一だだをこね富山永住宣言をしてもせめて旦那だけは一度つくば勤務になるだろう。富山に親類がいるわけではないのでたぶん私1人で特に2歳児の面倒をみながら富山の職場の仕事をこなすのは難しいだろう。ぎりぎりの人員で業務をこなしているので出張や残業をしないで居続けるのは無理だと思う。たぶん年明け(2008年1月のことである)からぼちぼち話があるのではないかなと思っていた。
私たちの職場では年末に新年度の人事に向けて事情調査みたいなものがある。その集約が終わって直後の12月、早くも夫婦で部長に呼び出された。
もうかよ!
話の内容は、
「住居は東京のようだが小さい子を抱えて通勤できるのか?」
ということと、
「出向でも大丈夫か?」
ということだった。私の職場には東京にも営業所があったが、転勤が前提の職場でつくばから事情があって離れられない職員が昇進の足がかりを作るため利用していたり、自分は首都圏が性にあうという人もいたりしてなかなか席の空があかない。しかも首都圏という場所がらさまざま業務が集中しやすく業務量も多い。小さい子供を抱えて休みが多かったり残業や出張に出にくいとやっぱりいづらい場所である。ましてや私のように亜流にいる人間は煩雑な業務をこなせる自信がなかった。
とはいっても、つくばに通勤となると遠距離通勤、実家がそばにあるといっても甥っ子がすでに義母におんぶに抱っこ状態でさんざん愚痴もきいていて頼りにはならないのはわかっていた。つきあっているときは常に私の事情を優先してくれた旦那は結婚したとたん実家優先になった。優しい人なのだろう、しょうがない。そして結婚して一族になってしまえば嫁の優先順位が低くなってしまうそんなもんなのだろう。ここで私が駄々をこねてみたところで、旦那が気をもむばかりで過労死しかねない。
でも一抹の寂しさが・・・。
いっそ私が遠距離通勤で過労死しちゃえばいいのにと転勤の話が出始めてから何度も思った。娘の学校のことも心配だった。富山ならさすが県庁所在地だけあって、かなりととのった環境で教育が受けられる。バレエだって値段の割にはとても指導の行き届いた先生に教えてもらうことができる。勉強ができる子なら全国区の一流の大学も目指せるし、勉強以外の技術を身につける学校もいろいろ選ぶことができる。そして子供にたいして社会の目がとても行き届いている。
東京はどうだろう。
近年小学校からのお受験がめずらしくない。学校はたくさんあるが私立で細かく成績でわけられていて、最初からできないと一生そのカテゴリーから抜けられないイメージがある。人が多くて大人たちはやたらめったら忙しくて子供にかまっている暇はなく、そうでない家庭は必死に子供に勉強させてるイメージ。私は田舎で育ったから、大学にいきたければその地域の進学校とよばれる公立高校に行けばよかった。そしてその進学校といわれる公立高校は特に受験のための勉強をさせているわけではなくいわゆる高校課程の勉強を教えているだけ。入学している人の成績幅もひろく、いわゆる一流大学にいく人からバイクで事故って包帯ぐるぐる巻きの人までいて、結果私は受験戦争の戦い方を身につけることなく大学受験には失敗したが自分がしっている一流大学に行った人たちは勉強以外もなんでもそつなくこなす人たちで、いわゆる一流の人ってなんでもできるひとなんだな~と思っていた。
私の職場は理系な職場で(私は文科系の短大をでてバブルのどさくさで技術系に就職できてしまった。)バブルがはじけて以降採用になるひとはいわゆる理系の一流大学の大学院まで卒業してきたような人たちが入社してきた。私の知っている一流大学に行った人たちは勉強はもちろんなんでもそつなくこなせる人たった。しかし就職してから出会った人たちは確かに難しい大学に合格しているだけあって勉強は得意みたいだけど、人として足りないものの多い人たちが多かった。私の実母は勉強さえできれば世の中どうにでもなると説き続け、私もそれを信じ込んでいた。だが
「勉強だけできてもしょうがないんだな。」
と思うようになった。長く組織のなかで働いていて、戦力になるのは勉強だけがのできる人よりも、体が丈夫でさわやかなむしろスポーツマンタイプの人なのだと実感した。人一倍の知識がある人も確かに必要だが、人ときちんとコミュニケーションがとれて努力さえできれば知識なんてそこそこ身についてしまう。あるときから、私は自分の子供を
「いい大学いけるように」
育てることは優先順位が低くなった。ただ勉強はできたほうがいいと思う。何かを知り身につけることは自分の生きる世界を広げることにつながると思うからだ。ただ、一流大学にいくことよりもどんな環境でも適応して生きていく力を身につけるほうが大切だと思う。私の実母は、
「勉強はだれでもできるはず。」
といい、結局自分の子供が自分は行くことができなかった国立大学にいけなかったのを嘆いていた。20代前半までは私自身もそのことを悔いたが、だんだんと
「それは単に母が勉強が得意だっただけ、私は勉強はあまり向いてなかっただけ。」
と思うようになった。それとともに、せっかくあった私の得意なことを母には気づいてもらえなかったのではないかとも思っている。親が自分の主観をあれこれおしつけてはいけないのだと思う。親がどう思うかではない、子供がどんなふうかをよくみてその子が無事巣立てるようにしてあげないといけないのだと思う。そうだとわかっていても、東京のようにすぐそばに日本有数の大学があり、それに向けしのぎを削る人々がすぐそばにいると思うとあせりを感じてしまう。2馬力で働いている我が家でも、たぶん子供2人を小学校から私立に入れるのはまず不可能だと思う。仮に一流の学校に入れたとしても、生徒には1番からビリまでいるのだ。そして、いくら一流のカテゴリーに入れるといっても小学校から大学まで、へたをすると就職したのちも一流といわれるグループに所属しているにしても一生そのグループの中だけで生きていけるのか?
一流の一貫校のなかは確かに選ばれた質のいい子供たちの集まりだ。
そしてその中に子供たちをいれておけば安全かもしれない。
でも人ってそういうきれいな場所だけでいきていけるのだろうか?
そう考えているうちに、
「じゃあ私はなんのために東京に住むんだろう?」
と疑問を感じるようになった。結局東京に住んでみたいという私のエゴだけなんだろうか?義母がどちらかというと旦那のほうが気が合うらしく、義母を安心させて楽させてあげたいという気持ちもあった。でもそんなのすでにそばに住む義兄一家には迷惑なだけだろうか?しかし、仮につくばにいたとしておそらく義母は安らぎを求めて毎週のようにつくばにくるかもしくは毎週のように東京の実家に行く生活になるのは目に見えていた。
社宅に住むのも限界だった。古い安造りの社宅は、専業主婦がせっせと家事をすれば清潔に快適にすごせるかもしれないが、日中は仕事をしているとなかなか大変だ。東京のマンションには床暖房もあり風呂場には洗濯物が干せるように温風がでるようになっている。そして防音も完璧で夜でも洗濯機がまわせて洗濯乾燥機も余裕でおくことができる。社宅は引っ越す際もあれこれうるさい制約があり引越しのときも大変だが、マンションなら多少はそれも楽なはずだ。私は仕事をしている間はマンションでいいのではないかと思っていたが、旦那は
「地べたのない家には住めない。」
という考えだった。しかし実家のそばとなれば話はべつ。そういう理由もあり、東京に住むことになった。すでに購入済みのマンションに入るたび、
「ああ、早くここで生活したい。」
と思ったが、子供のことをや富山という土地のよさを考えると住めるものならこのまま富山に住みたいという気持ちも強かった。

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2008/10/11

お久しぶりでございます

私は今、T県を離れ、なんとT都におります。4月に引っ越して早半年。太郎は公立の保育園へ、パパも卒業した地元の公立小学校の1年生となり、旦那は出向先で夜9時前に帰ることはざら、私は勤務時間を早出にしたため4時半には逃げるように職場を後にする毎日。でもその分私は朝は7時には家をでるし、昼休みは30分で食べるのはもちろん、買いに行く時間もないのでお弁当持ち、さらには前任に
「窓口のことは外注さんにまかせれば大丈夫だから。」
という引き継ぎだったのだが、異動して2ヶ月後敏腕外注責任者が異動きたのはへなちょこ責任者、監督の私も負けないくらいへなちょこなので苦悩の毎日です。半年もたつというのに、職場も家の中も日々綱渡りのいっぱいいっぱいな毎日です。
自分のことだけでなくついに小学生になった娘、少しはしっかりするのではないかという期待とはうらはらに、小学生として必要最低限の生活をさせるのに日々叱咤叱咤叱咤です。怒るだけではいけないとわかたっていても、怒ることしか目につきません。とりあえず登園すればよかった保育園と違い、勉強や勉強以外のことも身につけることが主たる目的になるのまもちろんのこと、母親も働いているということで本来なら午前中で帰る時間割でも5時すぎまで集団生活、疲れないはずがない。そんな環境で新しいことをさせるなんてそりゃ無理なことと思いつつ、それでもそうするしかないことに対する申し訳なさ。その上常に完全燃焼の娘は小学校の新しい生活で消耗、さらに学童で完全燃焼、あんたにゃセーブモードってもんがないのかとあきれる日々が今も続いてます。
ネタはつきないのに、2歳になった太郎は甘えたり反抗したりでPCに触ることができず更新もままなりません。嗚呼、せっかくタイマイはたいて買ったモバイルもできるレッツ君が泣いている。そんなわけで、しばらくはT県ネタが続きます。T都ネタを更新するにあたり、いよいよココログプロするのかはたまたココログプラスのまま乗り切るか思案中です。
でも、でも、これからはマメに更新したいな~。

それでは時を遡り年明け、ついにT県を離れることになったはりまのいきさつをお楽しみください。
(とりあえず、週2本ずつ更新できるといいな。)

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