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2008/11/26

というわけで

どうするか悩みましたが、こんない~加減な管理なのですが、「プロ」にしました。お金さえ払えばなれる「プロ」。
東京での生活は以下ページで更新します。
首都圏のはりまはkonnakanjiなのだ
T県まだ少しだけネタにしたいことがあるのでもしかすると更新するかもです。そのときはまた新ブログのほうで告知していきたいと思います。(たぶん・・・。)
おそらくは私の知人しかみていないだろうマイナーなブログですが、引き続き東京での生活も楽しんでいただけたら嬉しいです。(楽しめるのか?)

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2008/11/22

富山、それはパラダイス

5年間に及ぶ富山での生活だった。今太郎と同じぐらいだった娘は小学生になり、小学校に上がった娘は急に幼児の気配がなくなり日々少女になっている。
東京にきて一番ショックだったのは人だった。富山にいるときは割と知らない人でも気持ちが通じ合えたというか、初めての人と話しても相手の気持ちが思いはかれないということがなかったが、こっちにきて相手の様子が思いはかれずもしかして相手に不快な思いをさせているのかと思うことがある。たぶん話すときの話し方とか表情から伝わるニュアンスなのだと思う。子供の時住んでいた社宅は割と西日本の人も多かったのでそんなに感じたことはなかったが、家を建てて転校した中学校で同じような違和感を感じた。千葉の田舎の方になるのだが、どうも生粋の東日本の人と話すとあけすけにはっきりものをいうとなんだか相手がびっくりしてしまうようだった。あまり本音をいわず相手に合わせて話すことを覚えてからは割と友達も増えてきた。千葉・茨城は大家族で親族も近所に住んでいて、小さい頃から大勢の中で育つから人とそつなく話すコツをそれこそ呼吸するように覚えるんだろうなとも思ったが、なんとなく私は包み隠さずわっと言って豪快に笑いとばす関西系のノリのほうが好きだ。東日本はあんまりおおっぴらにするのはよしとしない気質があるように思える。(特に千葉あたりがそうなんだろうか?)
あくまで私の主観であるが。
富山も田舎度合からいうと千葉・茨城に近いのだが、京都・大阪からの文化も流れてくるので割と気質や文化は西日本風だったと思う。味付けとか、風土とか東日本に長く住む私にとってはめずらしくそして肌にあった。私の母はもともと福岡の人で、私が幼少の折からよく福岡がよかったという言葉を聞いていた。茨城にすんでいるとき、夏の暑い日に
「冷房がほしい。」
といった私に、
「こんなの暑いうちに入らないよ。」
というのがよくわからなかったが、富山でフェーンを体験し西日本って暑いのかなと思った。そのくせ冬は福岡でも雪が降るときいてあんまりピンとこなかったが、富山もやっぱり冬は雪がふる。福岡も富山ほどはふらないだろうけど、同じ日本海側で気圧配置が似ているんだろう。
母が茨城の、
「こんなにお天気が続くってすごいことよ。」
というのも富山に来て理解できた。そして、
「柿の葉につつむお寿司があるのよ。」
という話も、そんなもんあるのかと思っていたが、あったのだ富山の駅のおべんとうやさんに。もちろん富山のものでなく、京都か奈良のものなのだが北陸本線は大阪からきているからまあ日常てきなものなのだろう。本当に地元にすんでる人に言わせると富山と福岡は全く違うというのだろうと思う。でも福岡の賑やかな町で長く過ごした母が突然父の仕事のため、茨城県の砂と松林しかないところで子供を育てなければならなかったつらさを改めて思い知った気がする。本当に関西の人からするとものすごい田舎で一緒にするなというかもしれないが、上方の文化にも触れられて田舎風にのんびりしていてそして人が温かくていいところだった。
店の店員さんが非常にのんびりしていて、普通に買い物しててもレジのおばさんがふつうのことを話しかけてなかなか終わらなかったり、食べ物屋さんに入るとなかなか食べ物がでてこなかったり最初はびっくりしてしまったがでも考えてみると東京の人はなぜにあそこまで急いでいるのかと思うようになった。それは実際に住み始めてからもそうで、いまだにどうしてみんなあんなに自分から忙しくなりたがるのかよくわからない。
気候ははっきりしてて春は4月とともにやってくるし、夏はフェーンでびっくりするくらい暑くて秋には紅葉がきれいで冬には雪が降る。
日本海の魚はおいしいし、水もおいしい。
利府の梨も甘くてみずみずしくてずいぶん食べたな。
ホタルイカも白エビもおいしかった。
ポートラムが走りだして地域の老舗デパート大和が移転新装開店してから少し市街も元気がでてきてよかった。
郊外にはファボーレとかイオンとかおしゃれなショッピングモールもあるし、プラント3なんてリーズナブルで愉快なお店もあった。教育に力をいれているいわれている県だけあって、学校もそれなりな感じでかといってガツガツとテストの点をあげるのに必死になるのではなく、総合教育をめざした行事などもあるし大学に行くにもそれ以外のことを身につけるのにもそこそこの学校がそばにありよかった。ただ仙台同様優秀な学校を出て一流校に行った子供は結局都会に行ったきりの傾向があり残念だ。結局私は富山の人間ではいないけれど、私は是非富山の素晴らしさに誇りをもち、そしてその素晴らしさを活かして富山に暮らす人々の暮らしを豊かにしてほしいと思った。
ちょうど子供が1歳から6歳と大変な時期だったけど素敵な5年だった。
心残りといえば、
「転勤、それは長い北陸旅行」
のつもりだったのに、
芝政ワールドも金沢も白山も氷見も和倉温泉も芦原温泉も行けなかった
し、
トロッコ電車は乗れなかった
し、
関東よりずっと近い
糸魚川フォッサマグナ博物館も長野も京都も大阪も神戸も行けなかった・・・。
そして我が家の(太郎以外)はすべて思っているに違いない
I'll be back to Toyama, again!
まあ旦那は少なくとももう一度単身赴任することでしょう。
(そして家族は月1入り浸る)
私もできることなら定年退職まぎわにやってきて今度はオーバードホールで観劇三昧したいものである、ではなく、今回未就学児育児のため残業も出張も極力お断りしたため今度は身を粉にして働いてお返ししたいものである。
その土地にあるものだけでなく、そこに住む人たちも明るくて優しくて素敵だった。
富山に全くゆかりのない我が家にどこへ行ってもみんな明るく話しかけてくれてそして優しくしてくれた。
見知らぬ土地でそれが何より有り難かった。
富山よ!ありがとう、大好きだよ~!
そしてこれからは私もどこで出会った人にも明るく優しく接していきたいと思う(できるだけ)。

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2008/11/19

富山最後の日

富山最後の朝、空をみることはできなった。とにかくバタバタと慌ただしかったこと以外は思い出になることはなかった。なんとか時間に職場につきグループのまとめ役の係長に日報の集計を無事提出し、辞令をもらいそのあとは昼の飛行機の時間までこれといってすることがなかった。旦那は少し仕事が残っていて、それを処理していた。
私は太郎を騒がせないように太郎についていた。娘はしばらくはお絵かきをしていたが、お絵かきにあきて私と太郎についてまわった。そんなふうに時間をすごし、10時をまわり保育園が落ち着いたころになったのでお世話になったお礼に菓子折りを届けにいった。ちょうど担任の保育士は担当のクラスで保育を行っていて、園長も不在で園長代理の先生に渡してきた。すぐに職場に戻るのも迷惑かなと思い少しだけ散歩した。私と太郎は11時半ごろの空港行のバスにのる予定だった。11時になったら職場をでようと思っていた。それほど時間もなく、保育園の周りを少しだけウロウロして時間になった。11時まえになり、お世話になったグループの人に挨拶をして職場を後にした。その日から4月だというのにやけに寒い日だった。バス停のある駅の北口まではおもったほど時間もかからず、バスの時間まではたっぷり時間があった。しかし太郎の身の回りのものと太郎自身を抱えているとどこかに行く気にもならず、体力温存のため駅の時間まで待合室でぼんやりと過ごした。ややしばらくしてバスの時間になりバス停に移動した。もう1本あとの飛行機でも間に合ったのだが、太郎づれということで余裕をもって空港につきそして搭乗した。
登場口売店で鱒ずしおにぎりを食べたのだが、暴れる太郎を抱きながらの食事はパニックだった。なんとかおむすびを食べ終えそろそろ携帯の電源をおとそうと思い携帯電話を見ると保育園で仲良くなったチームママ茶の明るいママからメールが入っていた。名残おしかった。
「今搭乗口です。私と太郎は飛行機で、パパと娘は車で東京を目指します。」
と返信した。こっから先は楽になるぞ、と思ったが、そんなことはなかった。

ありえない~~~
富山は春に向かう暖かい空気と冷たい空気が押し合いしているらしく天気は悪かった。結局冷たい空気のほうが勝っていたのか4月になるというのに寒い日が続いていた。地上はどんよりと雲が立ち込めていた。
でも上空はいい天気・・・
のはずだった。高度があがるまでは揺れるかもなとは思っていた。そういうことは富山と東京を往復している間何度あった。なんと今回は
ず~~~っと気圧が乱れていた。
飲み物はなんとかでたが、機内添乗員の方々はそうそうと片付けて安全体制に入ってしまった。それからがすごかった。がたがたと揺れたり、急に上がったり下がったり。幸いなことに太郎は離陸してまもなく眠始めたがあまりにひどい状況に泣き出すのではないかと気が気でなかった。一方で、引っ越しの疲労の上太郎を抱えているため私も何度か
「だめかもしれない・・・。」
と思った。それほど乗り物がすきではない友人が、
「飛行機でひどい目にあった。2度と乗りたくない。」
といっていた。私はそれを聞いて、
「そんなもんかな、結構快適な乗り物だとおもうけど。」
と思っていたが、このとき思った。彼女の乗ったのはこういう状態の飛行機だったに違いない。ただひたすら、
「早く羽田に着きますように。」
そう祈り続けた。ようやく羽田につき、よろよろしながら到着ロビーについた。到着ロビーには私の父が待っていてくれた。赤ちゃん連れの電車の移動はだれかがついていてくれるととても心強い。
引っ越しのこれまでの過程で体力は消耗する一方でもし移動中に急にトイレに行きたくなったときとかに1歳児を連れたまま用のたせるお手洗いを探せるかとか急に気分が悪くなったりしたときちゃんと1歳児の安全を確保したまま対処できるかとか全く自信がなかった。飛行機はまだいい。どこでも当たり前のようにエスカレーターがついているし、お手洗いは広いし子どもと一緒に入れるきれいなお手洗いが何箇所もある。電車はそういうわけにはいかない。子供のいないときはあまり感じなかったが、子どもと一緒に移動するようになって、階段しかない駅が以外と多いことに気がついた。最近は大分改善されてきてはいるが、駅のお手洗いといえば汚いのが定番で私1人で移動するときは極力デパートなんかのきれいなところですませるが、トイレに行けるようになったばかりの子供を連れているとそういうわけにもいかない。そして駅のお手洗いでおむつ交換台をみかけることはほどんどない。その点高速道路はお手洗いには必ずおむつ交換台もあって、ベビールームもほとんどのサービスエリアにある。子供がいるとどうしても車の移動が便利だなと感じる。都心で小さい子供をつれ外出せざるを得ないお母さんはさぞかしたいへんだろうなと思う。道路交通法で子供を自転車に乗せるのも違反になりそうになったが、そうしようと思ったエライ人たちはおそらくまともに子供を育てたことなんかないんじゃないだろうか?
子供をつれた移動手段で自転車はとても便利だ。もちろん中には子供をのせたまま自転車をはなれてしまったりする人がいたり、乗せていて私自身ひやっとすることがある。だからって禁止すりゃいいってもんじゃないだろう。
小さい子供がいたって外出して用事を果たさなきゃいけないことはやまほどあるのだ。そして子供たちはけっしてママの都合に合わせることなどできず、自分中心に動きたがる子供になんとか合わせなだめすかし場合によっては無理やり用事がある場所まででむかなければならないのだ。
自転車の子連れ乗りを禁止するなら用事があるたびパトカーで運んでもらうか!
それにしても子供を抱えて移動しようが、暴れる子供をとりおさえようが負けない体力さえなければこれほどまでにはつらくないのだ。妊娠中も育児中もやっぱり女性に大切なのは体力だと下り坂を迎える30代にしていやというほど体感するのであった。
これで安心と思ったのもつかの間、モノレールまではよかったのだが、京浜東北線がちょうどホームに降りたときに行ってしまい、次の電車から遅れ始めた。駅に到着するのも遅かったのだが、途中駅で長め停車したりした。平日の昼間だからそれほど混まないかなと思ったがそうでもなく、結局席は空かなかった。父も70近くて、もう席を譲られてもおかしくない歳なのに荷物を持たせてしまいなんだか申し訳なかった。ようやく王子駅についた。まだ土地勘のない私にとってはこれから住むであろうマンションのさらに先にある旦那の実家は遠く感じた。
川沿いの桜が満開で東京はすでに春だった。
護岸が高い川なのだが、桜の枝が川に向かって垂れ下りそこに満開の花がつきそれは美しかった。
富山は4月になるのにまだまだ寒い日が続き冷たい雨が降る日が続いていた。
急に春がきた感じだった。
とうとう東京に来てしまった。
でもそのときは本当に富山での生活が終わってしまったのだと感じられるほど心も体も余裕がなく、それは今現在も続いている。

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2008/11/15

富山最後の夜

翌日は旦那は午前中出勤、私は1日休暇をとって部屋の掃除だ。翌日の荷出しのつかれで体力を消耗し、朝なかなか起きられずだんなの出勤時間ギリギリになってしまった。予定では娘を保育園において、旦那はアパートに戻りアパートから出勤する予定だったがそんなことをしていたら大遅刻してしまう時間になり、旦那は保育園から出勤していき私が娘と太郎を保育園に送りそして車でアパートに戻った。明日から4月といっても暖房器具のないアパートの部屋はものすごく冷えていた。まだガスはついていたのでお湯を使って掃除をすることにした。金曜日にやり残した日報の集計はやり残したままだった。そのときは3時くらいに出勤して職場でしあげるつもりだった。荷物の運びだされたあとの部屋はものすごい埃だった。今までこんな埃の中でくらしていたかと思うとゾッとする。それでもこれまではだいたい3年から5年で引っ越しを繰り返したからそのたびにクリアされてきたがこれからはそんなこともなくなるはずだ。毎回のことではあるのだが、今回も
「今度こそ整理整頓で清潔な暮らし。」
を心に誓うのだった。
まずは押入れのなかの埃を掃除機ですい、そしてぞうきんがけをした。1人でやると意外と時間がかかる。押入れが終わり、床に掃除機をかけ床をぞうきんがけ。そこで内装業者の人がやってきた。管理人から風呂の壁の塗り替えとふすまの交換を言い渡されていた。が、業者が今日入るとは一言も聞いていなかった。そのときまだ風呂の掃除は終わっていなかった。しかしきてしまったものはしょうがない。お願いして掃除を続けた。床は割とすんなり終わった。午前中に窓は終わらせたい。実は我が家、富山在住中窓掃除というものを1度もしていない。年末年始は必ず帰省の我が家は大掃除をしていない。そして富山は冬は雪が降りそれ以外の季節も雨の日が多い。太郎が生まれてからは日々必要最低限のこともままならない状態にあり、当然窓掃除には手がまわらなかった。
なので窓とさんを掃除するのにはものすごく時間がかかった。昼までの予定がなかなか終わらなかった。まだ風呂場・お手洗い・台所というこれまた日頃のよごれが積み重なった手ごわい場所が残っていた。超旧式でタイルでできた水回りは掃除する気力を失わせる。寒さと後悔でブルーになりがちな気持ちを慰めてくれたのはLet's NOTE君だった。彼には山ほど音楽が入っており、その音楽を再生しながら掃除に励んだ。
ありがとうLet't Note CF-W7。
本当は太郎のいないところでビシバシブログを更新したくて買ったのに・・・。
なぜかオーディオになっている、やや気の毒なLet's君。ああ、早く彼をホットスポットデビューさせてあげたい・・・。
窓掃除がなんとか終わりそうなころ、旦那が仕事から戻ってきた。
なんと、彼の部下である非常勤さんからお餞別のプレゼントを頂いていた。愛されてたんだね~。我が家ではカラテカと呼ばれていたハキハキとしていてパキパキと仕事をこなすよい非常勤さんでした。ほんとうなら昼御飯を食べにでている時間もおしいのだが、年も年なので食事はきちんととらないとまだまだ続く引っ越しに持ちこたえられない。とりあえず4月からはやめて転職する彼女のきょうのうちのお礼をしなければならない。そしてすでに腰痛にやられている旦那お気に入りの塗り薬とリポDもほしかった。富山ではさんざんお世話になったアピタに向かった。
必要なものを購入し、お昼のケンタを買って部屋に戻り、昼食をすませリポDを飲み、再び掃除にとりかかる。その時点でその日職場に出勤して日報の集計をすることをあきらめた。なんとか夜と4月1日ですまそうと思った。
再び掃除を始めたのが2時過ぎ。やっぱり台所と風呂場とお手洗いは結構骨が折れた。その日は職場の送別会もあり、なんとか掃除を終えたのは送別会ギリギリ間に合うか間に合わないかという時間だった。疲れないように余裕をもって臨むつもりだったのに早くも体力の限界にチャレンジする結果となってしまった。大急ぎで保育園にお迎えに行くと、チームママ茶の1人パパは同じビルで働いているというママにあった。もうすっかりテンパっていたためやっぱり気の利いたことは話せなかった。つきなみにお別れの言葉をいったところで、娘が1歳のとき耳鼻科であったママともあった。話しているうちに泣きそうになり、それまでは普通に話していた私も思わず涙が溢れそうになったしまった。
やはりつきなみな言葉しかいえず、急いでもいるので慌ただしく分かれ、太郎を迎えに行った。太郎の担任の保育士さんのベテランで子供と同じ目線で和気あいあいとするタイプではなく、大人としてきちっとさせたいというタイプのほうの保育士さんが残っていて、最後のバイバイで涙ぐんでいた。太郎がその保育園にきてお世話になったのはたった半年だったのだが、太郎だけではないとはいっても大切に思ってくれていたのだなと思った。子供たちのお迎えが終わると大急ぎで送別会の会場に向かった。
キッチン牛島という店で、以前にも職場の飲み会をやっていた。飲み屋さんというよりは古き良き洋食をだすレストランという感じなのだが、夜も予約で宴会を受け付けてくれる。食事はやっぱり居酒屋系というよりは丁寧に作られた和風コース料理がでる。冬のときはカブのポタージュがでてやはり一緒に連れてきていた子供たちが喜んで飲んでいた。やさしい味のお店だ。
職場から近いため、ランチにもよくいっている人がいるがそばにある他の会社からも大勢ランチにきている。6時から始まる宴会はすでに始まっていた。席についておいしいご飯を食べるぞといきごんだのだが、昨日まで体調が悪かった太郎の機嫌が激悪だった。抱っこで席に座っていることもままならず、すこし自由にさせたら機嫌がよくなるかなと思ったのだがなかなか彼の機嫌はよくならなかった。席から離れたところにいると事務で働いている非常勤さんがやってきて、なんと私と子供たちにお餞別をくれた。小さい子供を連れて富山にやってきていろいろなことでいっぱいいっぱいで非常勤の女性の方々とはあまり積極的におつきあいはしなかった。非常勤の方たちが私より若い独身の人だったり、最近3年雇用の非常勤も人数が増え最初に一緒だった非常勤さんの中で派閥ができていたりして付き合いに苦慮する部分があり、最初の非常勤のグループが代わってしまってからは積極的に非常勤の女性の方々のグループにかかわらないことにした。富山にいる5年間、非常勤の女性の方たちに困ったな~と思うことは何度かあったが皆それぞれによい方たちだった。どんなにいい人で仕事ができても3年でやめてもらわなければならないのは非常に心苦しかった。そんな中で事務に来ていた非常勤さんはいつもよく似合うすてきな服をきてきていて、明るくて事務むきなきちんとしている人で年齢も近いこともあり結構話したりした。
私は非常勤を含め部下や同じすべて同じ仕事をする人と一緒になる仕事はしていなかったため、なかなか話す機会もないのだが、その非常勤さんとは割と話す機会も多かった。でもまさかお餞別までもらうほどではないと思っていたのでとてもうれしかった。最後なのでいろいろな人にお礼をいう席だったのだが、あいにく太郎の機嫌は一向に直らず、
「あっちくの。」
といて出入り口を指さす。これはもうだめだとお暇することした。その日は雨がふったりやんだりで、夕方は強い雨が降り出したが、帰るときはちょうどやんでいた。送別会ではほとんど食事を食べることができず、宿のそばのコンビニで太郎におむすび、自分におむすび弁当を買って帰った。宿の部屋にもどり落着きを取り戻した太郎は非常勤さんにもらったサンリオキャラクターのケース詰められたチョコをなぜか皮だけ剥いては私に私、私はそのチョコを食べるはめになった。ふだんはチョコ好きな太郎がその日はまったく食べようとしなかった。やっぱり疲れていたのだろう。ややしばらく遊ぶと太郎は寝始めた。お、これはラッキーというこで、Let's君を立ち上げ、日報の集計を終えた。
すごいLet's note CF-W7!
日報の集計終えてしばらくして旦那と娘が帰ってきた。翌日も定時に出勤して辞令をもらわなければならない。
子どもたちはすでに保育園にはいけないので、子供たちを連れて出勤だ。予定では宿に入った後はのんびりすごすはずだったのにね。疲労は蓄積する一方のままだった。それでも私は明日、飛行機で東京を目指せるが旦那は娘とともに車で東京を目指す。私もつらいけど旦那はもっとつらいだろうなとおもった。だが東京にさえついてしまえば引越しの手続きなどのために休暇がとれる。それまでのがんばらねばと自分に言い聞かせた。

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2008/11/12

業者到着

娘の大好きなプリキュアの日。いやでも8時半には皆起きる。10時にはとりあえず業者がきてもなんとかなるんじゃないかという感じにはなっていた。準備していた段ボールが全部使い切ったのも関わらず、直前まで使っていたものがまだ結構残っていた。業者が段ボール持参で来るのを祈るばかり。時間をやや過ぎて業者はやってきた。その日は朝は日が出ていたような気がする。トラックでコンテナが2つ運ばれてきて、窓の柵をはずしエレベーターもどきのクレーンで荷物を下ろすようだった。荷だしに来た業者は4人、あとは運転手だった。トラックの運転手は外注さんみたいで、4人のうち2人はどうやら新人みたい。力仕事が得意というよりは営業向きな感じの人だった。
3月の最後の土日は引っ越しが立て込むらしく、引越し部門の人はすべてで払ってしまうため新人を研修だといってよびだしているんじゃなかろうか?そしてベテラン風の2人のうち、責任者風の1人は引っ越し部門の人だがもう1人は現金輸送の部署から応援に来ていたらしい。見積もりのときカンニング竹山みたいな営業の人が、
「その日は混んでるんですよね。もし今日見積もりだけで他の業者と比較するなら予約の保証はできませんね。」
とつっけんどんに言われたのだが、きっとあの営業さんも
「その日は混むんだよ、わかってんだろ!」
とか現場の人に怒られるんだろうなとその日思った。職場の手当の関係や社宅の手続きの関係上富山にくるときもそして今回も日通のコンテナを使った。富山にたくらいから引っ越し業者も増え、大手の引っ越し業者だとお任せぱっくの荷造りと部屋の片づけは女性がやっていると特集番組でみたりしていたのだが、うちは食器梱包とたんすの服とくつをお任せにしたのに来たのはガテン系の男性だけ。やっぱり昔からある大手業者じゃなかなか組織の体質がかわんないのかなと思っていたら、
「今日はラクラクパックの専門の人もみんな出払っててね。我々応援なんで。」
といっていた。でもやっぱり家具の取り扱いはやっぱりプロだなと思わせる丁寧さだし、若い2人はまだまだ気が回らないかんじではあるものの、親方がさすがプロと思わせる注意を促し見た目は今風の割とすかした感じの青年だったけど仕事ぶりは非常にまじめだった。そしてどうなるかと思った食器の梱包もテキパキとこなした。
さすがは引っ越し王日通。天気は朝は薄日が差していたが昼頃から雲が出始めた。
卒園旅行がチャラになってしまった娘たちは何もなしで終わるのは寂しいからと午後はみんなで遊ぶことになっていた。卒園式の日太郎が熱をだしてしまい困ったなと思ったら、娘だけを連れて行ってくれると友達のママさんが申し出てくれた。心底ありがたかった。昼近くなってもまだまだ荷物の搬出が続く感じだったので、待ち合わせの時間に間に合うように娘のお昼御飯とそれをみてほしがるかもしれない太郎のお昼御飯と、せめてみんなにおやつでももたせようとコンビニに買い出しにでかけた。ポッキーをお友達のかずと子供たちのお昼御飯をかって戻り、なるべく業者の人たちのじゃまにならない場所でお昼を食べていると間もなく業者の人も昼食をとりに行くといって作業は一時中断になった。クレーンのために柵が外され窓が開きっぱなしになり、風がビュービュー吹き込んで結構寒かった。3月末といってもその日は風がとても冷たかった。幸いなことにその日太郎の熱はなんとか下がり、おとなしくおんぶされていた。時間になり娘は友達の車に乗ってでかけていった。
娘が保育園の仲良しグループの子たちと思い出を作れることはもちろんのこと引越しの作業的にもとても助かった。
小学校に上がる直前の娘は割となんでもできそうででもやっぱり甘えん坊でほっておかれると寂しがった。午前中は業者の方に荷物をだしてもらいながら、残ったものをどんどんダンボールに詰めるという作業が続いたが、午後は業者に任せている箪笥と食器の梱包や大きい家具や電化製品の詰め込みでこれといってすることはなかった。
昼くらいまでは曇っていたが昼過ぎから雨が降り出した。娘たちは晴れていたら公園で雨がふったら駅の北口のワンダーラボに行くと言っていた。午後1時ごろには業者が戻ってきて作業が始まった。あれやこれやと作業は続き、結局完全に荷だしがすんだのは3時過ぎだった。その日のうちに部屋の掃除もはじめたかったのだが、結局できないうちに娘の友達のママから「そろそろ帰ります。」というメールが入った。別に業者さんのように思い荷物をもったわけではないけど、1日寒いくて落ち着かない場所にいた旦那も私もすっかり疲れ切ってしまった。その日は宿をとっていたので、娘が戻ってきたらチェックインして富山の我が家のくつろぎダイニング、ファボーレの湯でゆっくりしようということになった。娘は娘を迎えに来てくれたお友達の車で戻ってくるのかと思ったら、なんとみんなで娘を送ってくれた。寂しさはつのるのだが何しろ引っ越しで疲労困憊で気の利いた言葉もかけられなかった。
昼過ぎからぽつぽつと降り出した雨は結構な降りになっていた。
保育園のお友達と別れ車に乗り込みその日の宿に向かった。予定ではその宿で2日のんびりするはずだったが、宿に入る時点でピークに達した疲労はくつろぎダイニングファボーレの湯くらいでは癒すことができず、富山を後にするまでバタバタと慌ただしい時間が続いた。

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2008/11/08

いよいよ荷出し

卒園式も終了し、パパと娘が食事から戻るとさっそく荷づくりの追い込みが始まった。富山に引っ越してきたときはまだ娘は1歳。おんぶをしているかいったん寝てしまえば寝かしておけばよかったため、荷だし前日はほぼ徹夜でなんとかなった。だが子供が2人いると徹夜をしてしまうとその後体力がもつか心配で極力避けたかった。そんなわけで、卒園式終了後必至の作業だった。何をどうしたのか今となってはあんまり覚えていない。当日めちゃくちゃ体調の悪かった太郎。娘はおんぶさえしておけば割とおとなしくしていたものだったが、太郎はおんぶをしていてもだめなときがある。そして娘は熱がでてしまうとぐったりして布団で寝ていたが、太郎は体調が悪くなるとさらに人地肌恋しくなるらしく寝かしていると泣いた。太郎は保育園の申し込みのため保育園の面接の時点ですでに住民票が北区にうつっている。病院にいくと医療費が高くつく。なんとか市販薬で乗り切りたいところ。おんぶしているとなく太郎に試しにりんごジュースを与えてみた。ゴクゴクと飲み干すと太郎はすやすやと眠り始めた。そうして眠ると太郎はしばらく布団で寝てくれた。太郎を下せるあいだにかたっぱしから残りの荷物をダンポールに詰めていった。引っ越し業者からはさらに中10箱もってきてもらったがそれでもぎりぎり足りるか足りないかだった。深夜11時。部屋の中はまだまだ寝るには心配な感じ。娘ははしゃいで
「荷造り手伝う。」
もういいから寝てほしい・・・。結局娘が寝たのは12時くらい。大人が
「もういいだろう・・・。」
と寝たのは2時くらい。そして翌朝10時には業者がくる。おそくとも8時に起きるのがベストであろう。引っ越しの夜は更けていく。
のちにこの引越しのことを友人に話すと、その友人も結婚後引っ越すときは朝4じまでやって今寝ると業者がくるまでに起きられないということで、24時間営業のファミレスで食事と休憩をしたらしい。ファミレスなら少し寝ても最悪食事が出るとき起こしてもらえるもんね。
子供がいなくてもそんなもんなんだね。やはり引っ越しは心身ともに大変な負担である。

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2008/11/05

まあ、ある意味思い出の卒園式

卒園式前日、太郎は熱を出し保育園を休ませた。元気がなくて機嫌悪く何回か咳きこんで吐いた。困ったなと思ったが、夜になると元気になってきたのでとりあえず娘の卒園式に連れて行った。抱っこしていれば大丈夫かなと思ったが、赤ちゃんクラスの保育士に抱っこしてもらってなんとか記念写真の撮影は終えたものの控室に戻って卒園式を待っている間に吐き車に戻った。家に帰ろうかとも思ったが外は雨で気温も低くて寒い中帰るよりはこのまま車で抱っこしていたほうが負担にならないかなと思いそのまま車で待っていた。車で下痢のウンチをした。それで少し楽になったのかすやすやと眠り始めた。だいぶぐっすり寝たからと思い、チャイルドシートに移すとやっぱり泣き出した。車からは娘が卒園式をしている遊戯室がみえた。赤白の幕がはってある。今頃中はどうなっているのかなと思いながら車の中から眺めていた。結局式は昼前に終わった。ずいぶん長いことかかるんだなと思ったら外まで蛍の光の音楽が流れてきてそれからしばらくして子供たちがでてきた。
どんな顔ででてくるんだろう?
と思ったら、なんと号泣していた・・・。
他のお友達はみんなどこか誇らしげだったり笑顔だったのに、娘は涙でぐしゃぐしゃの顔ででてきた。
一緒にいた旦那がいうには、卒園式が終わってから娘は泣き出したらしい。
担任の先生が1人1人とお別れの挨拶をしたが、他の子どもたちとは笑顔で話しているのに大泣きの娘をみて思わず先生ももらい泣きになってしまったらしい。そのあと担任以外の先生が見送ってくれたらしいのだが、やっぱり他の子のときは笑顔で送りだしていた先生方が大泣きの娘が通るととたんにもらい泣きになってしまったそうだ。
他にも新年長さんの子が号泣してでてきた。その子は卒園式が終わる直前に花をもって入っていった。よっぽど好きなお姉さんかお兄さんでもいたのかなと思ったら同じ時娘の保育園唯一のお兄さん先生がやめることになっていた。聞いたところによると別の保育園で保育士は続けるらしい。なんでもその花束をもっていた子はその先生が大好きでその先生と別れるのがつらくて大泣きしていたらしい。
その子の名前は娘と同じ。
旦那方の親せきから
「まるで女優さんみたいね。」
といわれたその名前は涙で表現するタイプになるらしい。弟が生まれてからというもの、かまわれ度が低くなり何かっていうと泣いていた娘。私は人前で涙を流せないタイプなので、涙でごまかすタイプは
「困ったものだ・・・。」
と思っていた。だが卒園式のその姿をみて、
「そうか、この子は泣きで表現するタイプなんだ。」
と初めて知るのであった。そして彼女が泣くことに対して怒りすぎたと反省するのであった。まさか彼女の個性だったとはね~。ママ的には「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラくらい肝の据わった女性が好きなんだけどね~。でなきゃどんなにつらい時でも笑いとばせるくらいの人のほうが好きだな。その後娘はパパと一緒にママ茶チームの子供たちとファミレスにでかけていった。私と太郎は家に帰り引越しの追い込みにかかった。翌日には運送会社が荷物を取りに来るというハードスケジュールだ。某大型スーパーのCMで、
「ママも晴れ舞台なんだからおしゃれしなきゃ。」
的内容のものがあったが、記念日という意識より、
「はたして時間どおりに保育園に向かえるか?」
という緊張感と疲労の余り朦朧とした意識の中で終了した。なんかもったえなかったな~というのと、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。結局入学式もにたようなもんだった。なんだかね~。

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2008/11/01

そんななか私を支えたものは・・・

転勤・引っ越しのストレスで、私は何度もamazonでワンクリックしていた。まずはチーム・ナックスの一番新しい公演DVD。そのころの私はすでに大泉洋さんのファンいわゆる子猫ちゃんではなく、音尾琢真さんのファンいわゆる小魚ちゃんになっていた。(音尾さんが魚のように目が離れているため、彼のファンは小魚といわれるらしい。)
期待の眼差しで、フジテレビ「暴れん坊ママ」を見ていたものの、日テレ「ハケンの品格」の安田顕さんのように毎週コンスタントにはでてくれない音尾氏に一喜一憂を繰り返していた。しかし年明けからは日テレ「ボンビーメン」とりあえず毎週テレビでみることができる上、インターネットの「白いボンビーメン」をみることが私の大きな喜びだった。毎日子どもと仕事と家事に翻弄され、唯一の心の潤いだった。
何が好きって、高校時代新体操で鍛え上げたボディーといかにもスポーツマンらしいまっすぐな感じがいいです。やっぱり本人はわかくてきれいなお姉さんのほうが好きに違いないが私の妄想の中の音尾さんはいつも優しくまっすぐに私を励ましてくれのだ。(きゃっはずかしい。私の現在の生活はこれぐらいの妄想がないとやっていけないくらいつらくて厳しいのだ)
しかし、そんなものではあきたらなくなっていた。
ああ、もっと音尾さんを拝みたい。
もうチーム・ナックス最新公演DVD「HONOR」を買うしかないだろう・・・
ワンクリック
そして届いたその作品、なんかね~、音尾さん以外にも様々思いが自分のなかを駆け巡った。チーム・ナックスは森崎博之さん、安田顕さん、戸次重幸さん、大泉洋さん、音尾琢真さんという大学時代の演劇研究会で知り合った5人で立ち上げた劇団だ。もちろんレベルなんかくらべものにならないけど私もまた高校時代に演劇をやっていて、そのときのメンバーが6人。私たちは全員女子だったし今はその全員であうことはほとんどないんだけど演劇をやっていた自分を思い出させた。もちろん高校の演劇なんておままごとみたいなものだけど、三つ子の魂といわれる保育園時代保育園でみた子供向けの劇を見て、
「私は劇をする人になる。」
と思った自分からみるとそれを実現し、また多くの人々に認められているというのはとても眩しくそして複雑な思いで見た。割とコアな人たちからの支持をうけているのかと思ったが、公演規模が想像していたよりずっと大きかった。北海道という自分の拠点を大切にするというただの村おこし的なものだけでなく、彼らなりに表現したい人として大切な何かも感じることができた。私はもう演じる立場にたつことはないだろうけど、演劇には観客が必要。応援していきたいなと思った。実はもう1つ応援したいと思っていた劇団があった。なんと高校の時の演劇部の先輩が制作部門にいて富山の公演では名前がでていた。直接連絡とるこはできず、とりあえずその公演をみたのだが改めて演劇のおもしろさを知った。私はちゃんとした演劇よりも宝塚とかミュージカルとかエンターテイメント重視の作品のほうが好きだった。が、その演劇をみて演劇が文学の延長線上にあると感じた。改めて演劇の奥深さを知った気がした。高校の演劇部のとき、その制作部門に所属している先輩に当時私がもっていた演劇の概念を馬鹿にされたっぽいことがあった。当時は
「なにを~。」
と思ったけど、当時先輩はすでにこういう世界を知っていたのかな?
改めて
「やっぱ演劇の世界って好きだな。」
と思った。引っっ越し準備の最中にその劇団の後援会的なものの案内がきた。
東京に引っ越したら加入してもいいなと思っていた。
やっぱり演劇の中に入って活動するのは不可能だけど、そういう人たちを応援する立場もいいなとおもったからだ。どたばたと慌ただしく時は過ぎ、久し振りにその劇団のホームページをのぞいてみると、その先輩が退団していた。とうとうその先輩の消息がわからなくなってしまった。
今はどうしているんだろう?
私は過去の知人たちはよほどのことがない限り永遠に私の知っている人だ。でも私が過去の知人が永遠に知人であってほしいと願う人もいればいつまで過去の人間とは関わりつつづけたくない人もいるだろう。
もしかしてこの先輩もそうだったのかな?
今はどうしているかわからないけど、高校の演劇部で一緒にいたなかでその後もちゃんと演劇の世界にあり続けた人は先輩だけ。すごいなって思ってました。
さて、話をチーム・ナックスに戻すがこの劇団だけでなく、この劇団の人たちが所属している事務所がまたすごい。
オフィス・キューという事務所なのだが、チーム・ナックスのメンバーと同じ大学の演劇研究会出身でもともとタレントでもある人が社長もやり、やっぱり今でもタレントっぽい活動もしてるし映画も撮ってるというすごい人だ。
ご存じの方も多いと思う「水曜どうでしょう」でおなじみ鈴井社長だ。我が家はこの鈴井社長はじめオフィス・キュータレントが多数出演しているHTBの「水曜どうでしょう」ならびに「ドラバラ」に激しくはまっている。何がいいって北海道にこだわりあるものだけで効率よく盛り上がっているのがたまらない。けっしてお金はかかってないが(たぶん)それをまさにタレントのタレントたる才能でもりあげている。最初は、
「この人たちいったいだれ?」
と思っているが気がつけば出演タレントと製作者の力に魅了されている。私は茨城県と千葉県の片田舎でしかも地元の人ではなく、両親ともに九州出身という境遇で育った。だから自分の出身地に興味も愛情もなく、いつも
「早くこんなになんにもない田舎じゃなくて何でもある東京で暮らしたい」
と思い続けて育ってしまった。そもそも国の事業として無理やり作られた工業地域にその中の工場くために移り住んできたということもある。文化のようなものはあまり感じられなかった。だからもっと魅力のある土地に住みたいという思いも強かった。就職試験を受けた時、
「転勤もありますけど大丈夫ですか?」
と聞かれたとき全く抵抗はなかった。というのも、就職する時点ではたぶん自分は家庭を持つことはないだろうと思っていて、だったらいろんなところに住めていいじゃんくらいにしか思ってなかったし、万が一結婚できてしまったら昇進をあきらめて転勤を断ればいいじゃんくらいに思っていた。
当時女性の少なかった技術職で
「女だからって男に劣るものはない。」
と信じていた私は、就職してからも転勤を希望し2年後には転勤の話がきて仙台に住んだ。しかも仕事の内容上赴任期間の3年で東北6県すべてに足を踏み入れ、各地の魅力のすばらしさに感動した。
でも若い人は東京に出て行ってしまうんだな。結局この転勤で、どだい女が男と同じことをしてみても劣るのは当たり前だし自分はその仕事にすべてを注ぐことはできないと悟り、しかも先輩に飲むたびに「女性に来られて迷惑だ。」と責められ心身ともにすっかり弱り就職してからなぜか私のこと好きだといっていくれる危篤な人と結婚を決意し、もう2度と転勤することもないだろう転勤するなら同じ職場で同期の旦那を差し出そうという気持ちだった。
ところがだ、娘が生まれて育児休業が明けてすぐ旦那へ東京への出向の話がでた。じじばばの育児協力はあてにならず、初めての育児で不安だった私には旦那が東京に出向し深夜まで帰らない環境で仕事するのは考えられなかった。だが、仕事をやめることは全く考えなかった。
旦那1人の出向を断ったら一家で富山に転勤することになってしまった。富山もやっぱり都会の一流大学にいった若者たちは都会に行きっぱなしになっていた。でも東日本で育った私にとっては目を見張るような楽しいものが山ほどあった。
どうして、どうしてこの魅力をもっと全国にアピールしないんだろう?
それが不思議でならなかった。
だからオフィス・キューのように地元にこだわり全国区でもまけない魅力を発信するできるのはすごいと思った。HTBのように小規模ながらも人を虜にする魅力を発信できる力ってすごいなって思った。景気が悪くなって以来地方は暗い話が多い。
だからといって都会を目指すのではなく、逆に地方から発信していく元気が必要なのではないか?
HTBの
「ユメミルチカラ」
というキャッチフレーズがとても好きだ。(今は違うみたい)
私はというと結局富山を後にして東京23区の住人になってしまった。旦那の出身地なのでしょうがない。
これから綴り続けるが5歳と1歳の子供を連れての大移動はかなり過酷で、しばらくは旦那を単身赴任させてもひとところに落ち着きたい心境ではあるが、いろいろな土地のいろいろな魅力に触れるのも捨てがたい。そんなわけで私はオフィス・キューを、チーム・ナックスをそしてだれより音尾琢真さんを応援するのである。
音尾さんは単に煩悩によるものではあるのだが・・・。
いい歳して困ったもんだ。

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